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2006/10/11

この記事へのリンク mixiは毎日年賀状をやりとりするようなものだから疲れる−コミュニケーションコストが高いツールで複数の人と雑談を毎日する苦労−

kercの日記 - mixiが嫌になるようなメンタリティが非コミュと呼ばれるんじゃない?
 mixiは雑談ツールであるという分析に大きな異論はないんだけど、ちょっと見逃している点があるので書いてみる。ちなみに自分も雑談苦手な人。
ARTIFACT ―人工事実― : 雑談だけで会話を続けるのは難しい

kercの日記 - mixiが嫌になるようなメンタリティが非コミュと呼ばれるんじゃない?

コミュニケーションが不得意な人に多い勘違いとして、話には内容が伴わないといけないなんていう観念があるように思う。「なんてことない話」ができない人。「雑談ができない父」を持つとそんなふうになるとかどっかで読んだことがあるけど、逆にこういう人の「濃い話」は割とクソつまんなかったりするんだよなぁ。世間話してるのに正確さを追求して「ツッコミ」のつもりで「訂正」入れてきたり、当たり障り無いこと言うような場面で深い話をされたりして。ただ、場が議論モードになってる時はこの種の人は活躍するし、面白い意見を持ってるから聞いてるほうも飽きない。だけどこういう人はいわゆる付き合いやすい人ではない。とりとめもない話、雑談、無意味な非生産的な話ができなければ、普通の人にとってコミュニケーションの機会は激減するのは明白。人と絡む回数が減れば、人との付き合いは小さくなる。
 音声による会話は時間のコストが低いため、雑談をしても、時間を損した気分にはあまりならない。しかし、mixiでのコミュニケーションは文章主体であり、文章を書くというのは会話よりも時間がかかり、コストが高いコミュニケーションといえる。チャットをすればわかるが、同じ時間内だったら、音声による会話のほうが情報量が多い。ということは時間の割に実りが少ないと感じることも多いということだ。もちろん、遠く離れた人とも交流できる、相手の時間を気にせずに交流できるなど、欠点を補う利点も多数あるが。

 mixiは仲間内しか見てないなど敷居が低い部分があるため、書き込みしやすい。だからコメントがつくと次々にコメントがついたりしてチャット状態になったりする。しかし、実際にはmixiはチャットのようなリアルタイムの会話を目的としたシステムではない。もともとはお互いの時間を合わせずに済む様に非リアルタイムを意識したシステムだ。
 やろうと思えばリアルタイムになるが、もともとそれを想定してないツールというのは、コミュニケーションツールとしてしばしば齟齬を起こしやすいと感じる。わかりやすいのが携帯メールで、携帯メールというのはいち早く返すという作法だと思っている人は女性を中心に多いが、PCメールと同じように捉えている人はすぐに返事をしなくていいと思ってしまう。こうした時間感覚の差が齟齬を生む訳だ。
※参考
男のモテはメールに尽きる──『メル返待ちの女』書評-モテゼミ

4072462802メル返待ちの女―最近、彼からのメールの返事がめっきり減ったあなたへ。
織田 隼人

主婦の友社 2005-03

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2006/08/03

この記事へのリンク ネットでのアウトプットが少なくなった人の存在感

Scott's scribble - 雑記。: コリアン・ザ・サードがちと心配。
 古い記事だけど、このコメント欄のやりとりが興味深かった。

本筋とは違う話ですが、ガ島通信は転んだんじゃなくて、究極の「有言実行」をやろうとしてるんですよ。そういう意味で彼は本当に漢。ただ、それ自体をビジネスにしようとしてるのでブログに書けなくなっちゃった。
最近、彼を誤解してる人が多いことを知って、あららと思ったので一言。ネットの中だけ見ていても分からないことはたくさんありまっせ。
Posted by R30 at 2006年05月25日 23:54

>R30氏
了解しました。
ただ、了解はしましたが、
やはり私からはネットの中のガ島通信さんしか見えませんので
そう申されても全然ピンとこないのが実際のところです。

引き続き、影ながらガ島さんからの何かしらのアウトプットを待つことにします。
Posted by Scott at 2006年05月27日 12:48

 これは、R30さんの言いたいこともScottさんの気持ちもわかる。

 よく書くけど、ネットにその人のすべての情報が出ている訳ではないというのは当然だ。ただ、最初、ネットでよく発言していた人が、ネットでだんだん発言しなくなると、ネットでしか知らない関係の人からみると、あれれ、どうしたんだろうということはよくある。
 その人にとても強く関心があるのなら、メールのやりとりなど、もっと個別のコミュニケーションをすればいいんだろうけど、そこまでコストをかけるほどではないんだけど気にしているという程度の関係は、個人サイトに馴染みのある人ならよくある感覚だ。
 以前なら、こういった一方通行の関係というのは芸能人や作家などマスメディアに登場する人間に限られていたが、ブログブームによって個人の情報発信が増えた現在では、こうした一方通行の人間関係を持つ人は増えてきている。

 その人をネットで知った読者からすると、ネットにずっと関わって欲しい、ある程度情報をネットでアウトプットして欲しいという気持ちが、読者側にはあるけど、当人からしてみればアウトプットができれば、場所はネット以外でもいい。ガ島通信の藤代さんの場合は、ネットでアウトプットがされるとは思うけど。
 自分の場合、雑誌をやっていた時期はネットでのアウトプットにあまり関心がなかった。アウトプットが他にできる場所があるのなら、ネットを使う必要を感じなかったからだ。面白かったのは、その時期、ネット上では自分の存在感がなくなっていたこと。「加野瀬は何してるの?」みたいに書かれているのをよく見た。ネット上のアウトプットがないというのは、ネットにおいてはその人の死なんだなあというのを実感した。
 自分としては、ある人のネット上のアウトプットがなくなっても、その人は他の場所で何かやっているのだろうと思っているけど、「ネット上のアウトプットがない=その人の死」と感じる人は、ブログ時代になってますます増えていると感じている。それにどう対応するかどうかというのは、ネットで発言している人は意識したほうがいい。

2006/04/21

この記事へのリンク ブログ時代は「いかに言わないか」が大切

ARTIFACT@ハテナ系 - 糸井重里氏のブログへの視線
 で見つけた記事なんだけど、面白いことを言っていたので別枠でメモ。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 永江朗さんが聞き、糸井重里がこたえた 「宣伝会議」の特別講義。いま、「コミュニケーション」とは。

でも、外に発表しない情報は、
伝わらない。
だから、そういう情報を
どれだけ大切に持つか。
だから、
発表しないものこそが「僕」で、
発表したものは「みんなの僕」なんですよ。

そういうことを、
ありとあらゆる人が
やっていかなきゃならなくなる。

まずは僕が、
その練習をやっとくからね、
っていうつもりなんです。

 以上、糸井氏の発言より。

 ブログ時代は「いかに言わないか」が大切ということですか。人によって、「書かなくていいこと」と思っていることは違っているので、その辺の齟齬が今後も発生しそう。
 でも、思った時点でブログに書かなくても、多分いつかは言ってしまうのではないでしょうか。実際に、ここでも糸井氏はアルタミラの洞窟の美術書を夜中に読むのが好きという話をしてしまってます。
 逆に思った瞬間に言って、人からいろいろ言われてパッチを当ててもらうという考え方もあります。発表しないで自分だけの中にとどめていた時間が大事?
 糸井氏の例でいえば、「アルタミラの洞窟の美術書を夜中に読む」は実は言ってもいいと思っていたのかも知れません。でも、そこでどう感じたかなどは話さない。いずれ話すかも知れないんだけど、まだ話すほど煮詰まってないとか、他人と共有したいと思ってないとか。

※関連
また君か。@d.hatena - 大したことのなさと web 文書

だからおれにとって大したことのない情報はネットに上げる。おれにとって大したことがないわけではない情報、たとえば自分や他人の個人情報は、ネットに上げない。そういう基本ルール。Google の検索結果がゴミだらけで使いものにならなくなる日が来れば、おれにとっての Web 2.0 は御破算、または賞味期限切れということだ。

 ところで、ほぼ日刊イトイ新聞が過去の記事にアクセスしにくいのは何か意図があるんだでしょうか。記事を探す時は、Googleで「糸井重里+対象」で検索したほうがすぐ見つかるし。
ほぼ日刊イトイ新聞 - プチクリをめぐる歌。
 これを後で読もうと思って、トップから辿ろうとして挫折を。
 と思ったらいつのまにか人物名によるナビゲーションが。でも、「あ・か」に岡田斗司夫氏が入ってませんでした。あれれ。

2006/03/01

この記事へのリンク ブログのワイドショー化

※4/5にあげました

FPN-ニュースコミュニティ- ゲームをつまらなくしたのは僕たちゲーマー自身かもしれない

砂上のバラック - まさに「ブロガーの病」とでも言うべき
 前半のゲームの話に引きずられず、後半の話に注目。

俺が一番問いたいのは、「ニンテンドーDSが売れている。どうぶつの森、脳トレが売れている」という世間で話題を呼んでいる事象に対して、ろくな見識も知識も持ち合わせていないのに知ったかぶってもっともらしい考察をつけ加えようとする余りいいかげんなことを言う、まさに「ブロガーの病」とでも言うべき態度についてだ。

 細かい部分はにっくさんが指摘しているので書きません。
※なお、コメント欄で元の記事を書いた徳力さんがコメントをしているので、この件自体は終了しています。

 自分の感想は、ネットサービス系の職についている人たちは、ゲームのコミュニケーション機能のところに注目しすぎ! そりゃネットサービスはコミュニケーションが前提だからしょうがないけど、ゲームにコミュニケーションツールの機能だけ求められるようになる未来は勘弁してくれ! というもの。

 さて、この「ブログのワイドショー化」というと、辻大介氏が以前、静岡の母親毒殺未遂事件に関しての記述を思い出します。
思考錯誤 - 母親毒殺未遂事件とリアリティ・ブログ

なぜ私たち(容疑者を含む)は、淡々とした現実として、殺人未遂事件を受け入れることなく、「作品」(虚構)という賭け金を積み増そうとするのか。

無意味な現実に意味を与える物語が欲しいのか。

おそらくそうではない。

欲しいのはむしろ現実感(リアリティ)そのものなのではないか。


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2006/02/18

この記事へのリンク 誉め上手に人は集まる

ぼくはまちちゃん!(Hatena) - ともだちはてな

だけどそれって、褒めてくれる人がいるから成り立つんだよね!
あるいはギャグやジョークなら、大笑いしてくれるひととか。
だから人は、自分を褒めてくれる人に寄っていくよ。
そして自分のした業績を「ちゃんと理解して褒めてくれる人」っていうのは
褒められたい人にとって、すごく貴重な存在なんだ!
 はまちちゃんがすごくいいことを言ってます!(笑)
 人のいいところを見つけたら、心の中だけで思ってないで、ちゃんと相手に伝えたほうがいいというのはわかっているんだけど、それを完全実行はできてません…。

 はまちちゃんがやっているmixiやはてなのセキュリティホールを使った遊びは、好きな女の子に対して、好意を表明せずに、ついいたずらをしてしまう男子小学生と同じ。なので、これは自戒? ツンデレ宣言かも。

あ、そうそう、他人の評価を上げることは、
決してきみの評価を下げることにはならないよ!
むしろきみ自身の評価を上げることになるんだ!
 これがポイントなのかも。他人の評価を上げることが自分の評価を下げてしまうと思ってしまう心理が。
 でもネットの場合、「陰口で繋がる自由」が優先されてしまう?

 最近書いたこの記事も思い出しました。
ARTIFACT@ハテナ系 - 人が喜ぶのが嬉しくてやっている人は儲かる
 この記事に対して、自分が面白くなければモチベーションは続かないという指摘があったけど、その通りでして。あと、別の形で「儲かる」人もいるけど、自分としては、この話の「儲かる」にはあまり主眼を置いてなかったので触れませんでした。
 自分が面白く、かつ人が喜んでもらえる行為がベスト。問題は「自分は面白いけど喜んでくれる人がいない」「自分は面白くないけど人は喜んでくれる」という時。
 前者は地道に続けるしかなさそうです。継続は力なり。後者は人が喜ぶことで自分に面白さ以外のメリット(よくあるのは金銭か)があれば続けられるだろうし。

 上の話題と繋げると、分岐点は「他人に興味を持てるかどうか」なのでしょう。自分にしか興味がない自己愛が強い人とはコミュニケーションしづらい訳ですし。

 これに関連して、最近話題になったものを。
インサイター:ブログでは「褒め上手」がトクをする
はてなブックマーク - インサイター:ブログでは「褒め上手」がトクをする

「トクをするブログ」を目指すか目指さないかは個人の嗜好の問題であり、どちらが正しいとかカッコイイとかいう議論には、実は興味は無いのです。
 今見たら、真実一郎さんのこんなコメントがありました。確かにその通りで。
 自分としては、自分が誉めても、閲覧者がそれは何らかの裏があるんじゃないと勘ぐられやすくなるのはいやだから、企業と何らかの関係がある場合は、それを表に出したほうがいいと考えてます。書籍だと、献本されたものと自分で購入したものをちゃんと言うとか。

 「誉め上手は得をする」は、総合すると、自分がよく言っている「ブログ世代はポジティブ、それ以前の世代はネガティブ」の話に繋がります。そして、「昼のブログ、夜のブログ」、ブログの履歴書話(仕事に繋がるかどうか)や実名仮名にも。
ARTIFACT@ハテナ系 - ブログ時代は「屈折」から「素直」なのか

Rauru Blog ≫ Blog Archive ≫ 頑固職人 vs Web 2.0

Blog コミュニティでは、頑固職人の持っている技術と経験よりも、反応のポジティブさの方が重視される
反応が球撞き的に転がっていって盛り上がることが、何より良いことだとされる
Artifact のコミュニケーションの可視化が起こす問題で書かれているように、人気者となることに価値が見出される
 そういえば、屈折素直記事へのTrackBackでこの記事は面白かったです。
 頑固職人は他人を簡単には誉めません。でも、ある時、実は認めてくれていたことがわかったりします。ただ、このスタイルが通じるのは、コミュニケーションが長く継続することが前提の場だけ。人の流動性が高くなると、相手を認めたことや好意はすぐに表明しないと、人は離れてしまうことに。

2006/02/07

この記事へのリンク ネットは多様性を生むという幻想が終わった時代に

 ネットは多様性を生むかのように言われてきた。しかし、それは幻想であり、今後多様性を抑圧する方向性に進む可能性が高い。ネットグローバリズムだ。
 なぜ多様性があるかのように思えたか? それは、簡潔にいえば、初期にネットをやっている人がマイナー志向を持つ人ばかりだったからだ。そして、マイナー志向の人は、自分の価値観を排除されないために、自分と違う価値観を持つ人の存在を否定しない。
 しかし、「万人」とか「普通」とか何の躊躇もなく使う「普通の人」(自分流の勝手な定義でいえば、自分の価値観がない人たち。自分がどう思うかより先に他人がどう思うかが基準の人)が入ってくれば、そこには同調圧力が出てくる。

 面白いブログを教えてください、なんて他人に聞くような人たちは、自分自身で情報の価値を決められない人だ。大体、他人に「面白いことない?」なんて聞く人にロクな奴はいない。自分で面白いブログも探せないような人々は今後どんどん増えていく。だからこそ、ブログランキングやらブログ紹介本の需要がある。それが「一般化」だ。
 また、ネットを見て「こんないろいろな人がいるんだ」と思うような使い方ではなく、ネットの声こそが真の民の声!なんてプロパガンダのような使い方を取る人が増えてくれば、あきらかに一つの価値観であることが要求されてくる。
「万人に向けられるべきだ」「我々は普通の日本人であり、そうでない人間は非国民だ」

 ネットというのは、圧倒的な量の情報を、低い金銭的コストで集められる。しかし、多数の情報から、自分に適切な情報を探し出す能力が、すべての人にある訳ではない。だからこそ、情報を価値付けしてくれるマスコミは必要とされる。すべての情報が等価値である情報羅列型のぴあよりも、情報に価値をつけている情報選別型のTokyo Walkerを選ぶ人の方は多かった。ネットにおいても、Googleに代表される情報を価値付けしてくれるサイトが影響力を持つ。
 従来のメディアは選ばれた人しか情報発信ができなかったが、ネットは誰にでも情報発信が行えるから、情報が溢れかえる。情報が増えれば、価値付けが必要になる。価値付けが一元化されれば、多様性は抑圧される。それを考えれば、当然の帰結だ。ネットは新しいリアルを作るのではなく、リアルの延長に過ぎなかった。

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2005/11/28

この記事へのリンク 高額STBを売るマルチ商法の会社から個人ブログに苦情

takoponsの意味 - マルチ商法会社から苦情がありました。
takoponsの意味 - 検討中の覚え書き(マルチ商法に関して)
 40万円もするSTB(セットトップボックス)を売っているユナイテッド・パワーという会社は、マルチ商法だとココログで書いていたら、その会社の関係者が@niftyに苦情を申し立てたらしく、@niftyのユーザーサポートから記事内容の見直しを検討して欲しい旨の連絡があったという話が。

ユナイテッド・パワー株式会社
http://www.unitedpower.co.jp/

ぽんすブログ: upsは詐欺
ぽんすブログ: upsその2
 問題の記事を見たんですが、3〜4万円程度で組めそうなPCを40万円で売りつけですか…。もうこの時点で、あからさまに怪しいです。そして会員が増えれば配当金がもらえるというシステム。40万円と高額なのは、個人代理店になる権利代でもあるためで、儲かるという説明を信じた人には高いと感じないようです。
 訂正する必要は感じなかったですが、今後この会社がどういう対処をしてくるかが気になります。待っていれば自滅しそうな感じもしますけど。

 最初の記事のコメント欄には、明らかに関係者がコメントしていて笑いました。この後も訳分からないコメントが続いてます。

ここにコメントを書いている皆様は、実際にユナイテッドパワー株式会社に行ったことがあるのでしょうか?実際に会社の人間に会ったことがあるのでしょうか?
会社のことを何も知らずに何を語られるのですか。
知人、友人、家族の誰かが代理店になって『お金が入ってこない』て言っている方がいらっしゃるのであれば、その方が仕事をしていないからです。
この会社は詐欺の集団ではなく、ビジネスなのです。どこの会社に入社しても働かなければ収入はないのでは?
私が今日読ませていただいたコメントの中に実際行っている仕事内容とは掛け離れたことを書いている方がいらっしゃいました。
このホームページにコメントする前に実際に本社に行って、仕事内容を確認したうえでコメントするべきではないのでしょうか?!!!

名前: htm | July 15, 2005 12:49 AM

 検索してちょっと情報を調べてたら、船井幸雄氏がこのユナイテッド・パワーを設立した三宅国秀氏と一緒に書籍を出しているのを発見。レビューなどを見ると、書籍の内容はこのSTBをプッシュしているそうで…。
 船井幸雄氏はもともと胡散臭いと思っているので好感は持ってなかったんですが、こんな人に協力しているのを見て、ますます好感度は下がりました。

4198619360一六〇兆円市場は口コミとITがつくる
船井 幸雄 三宅 國秀

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2005/11/22

この記事へのリンク 本家と分家に分けるのは読者を減らす努力…だったんだけど

ARTIFACT@ハテナ系 - 断片部とかってはてダユーザーにとっての別荘でしょ
 を書いたら、本家/分家という考え方はRSS時代には古いのではないか?と指摘されたので、自分の考えを説明しておきます。

 自分の場合、本家/分家と分けたのは、RSSで読むような常連の人のことよりも、検索エンジンなどぶらりとやってくる一見さんたちに対しての作戦でした。サイトの文脈を知らない人に変な読み方をされることから逃れたかったのです。いわゆる「読者を減らす工夫」ですね。
ant-eat-ant world: December 16, 2003
 ここで書かれている「ミニコミ(印刷媒体)は読者数を自分で選択できるが、ウェブは読者数を選べない」は重要な指摘です。このことがウェブのメリットであり、デメリットでもあります。

ARTIFACT ―人工事実― | サイトの読者を減らす努力と「儀礼的無関心」

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2005/11/21

この記事へのリンク 欲しいのは「陰口で繋がる自由」

不倒城: 人は何故、「読むと不快になる文章」をわざわざ読みたがるのか。
 古い話題を発掘。
 この記事に対して「不快になる文章を読んで、それに対する悪口を他人と一緒に語りたいからでは」と分析している人がいて、あーそうだよなあと思ってました。
はてなブックマーク - 不倒城: 人は何故、「読むと不快になる文章」をわざわざ読みたがるのか。

2005年08月04日 wushi 『その調子で“人は何故、「読むと不快になる文章」をわざわざ書きたがるのか。”も分析してほしい。』
 というコメントがありましたが、「不快になる文章」を書きたがる理由もこれで説明できます。
 「不快になる文章」を読むのは、それに対して人と一緒に悪口を語りたいから。「不快になる文章」を書くのは、同じ不快感を持つ人たちを見つけて、その人たちと一緒に語りたいから。
 正確には、前者と後者はいつでも同じ種類の「不快になる文章」になる訳ではないです。たとえば、前者では、「不快になる文章」というのは、文書を書いている本人の行為が綴られている文章で、それが「倫理的に許せない行為」であった場合がよくあります。よくネットで糾弾されやすい「俺様はこんなことをしてやったぜ、ガハハハハ!」みたいなのです。
ブログで自滅する人々(第1回)〜ブログで「祭られる」人々 / デジタルARENA
 ここで紹介されているような例ですね。
 それに対して、後者は「ある人や作品、事象に対する悪口」であることが多くて、その文章は、その人や作品を好きな人、肯定的に思っている人から見れば「不快」になります。
 「不快になる文章」を読んだ人が、それに不快感を感じて、不快感をネットで表明し、その表明が度を超した表現であったら、また他の人が不快感を表明するというスパイラル。

 「不快になる文章」を読むことは「他者」を知ることなんだから、いい事なんだけど、そこで対話ではなく、単に気分の表明しか行われないから不毛なんでしょうね。

 そして、この話題を広げると下記のような話になってきます。

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2005/11/19

この記事へのリンク 一方通行の人間関係が多数成立することによって生まれる居心地の悪さ

 ネットの普及によって、マスメディアに登場するような有名人以外の人のたちの生活や考え、心理を知ることができるようになりました。人間関係というのは、双方向が基本だったが、一方通行の人間関係がたくさん成立するようになったのです。そういった一方通行の人間関係がたくさんあると、その人に対して、どの程度関係したいかを考える場面が増えてきます。そして、「この人にはここまで関係を維持する(距離を取る)」という判断を常に下すことになります。
 mixiのコミュニティなどで「○○さんを助けるコミュ」などを見かけた時に居心地の悪さを感じますが、これは積極的に関与する決断を迫られているのを感じるからではないでしょうか? これまでぼんやりとしか認識していなかったものを急に意識させられ、決断を迫られるという不快。
 それまでは、群体のような形でしか認識してなかった人たちを個別認識するようになり、他者への想像力が上がりやすくなりました。おまけにその他者には直接コンタクトできるのです。
 関与できる可能性のある人間関係がどこまでも広がった結果、人間関係の距離の取り方の基準が難しくなってきます。いろいろな状況が想定され、基準の幅が広いために、すれ違いが起きやすい。たとえば、一回メールをやりとりしただけでも「友達」だと思う人は出てきます。
 人間関係の選択肢があまりに多くなった結果(社会学でいえば「流動性が上がった」か?)、そこから自分に合った選択肢を選ぶ能力が必要になりましたが、それは逆にいえば、どの人間関係を重視しないか、という能力が必要になったといえます。

 具体的な話でいうと、よく見ているサイトの管理人がプライベートなことで困っている時に、言葉を投げかける以外にどんな手助けをできるか? そういった手助けをするかどうかをどこで切り分けているか? 自分はそこまでコミットする関係ではないと思っても、そこでどうしても居心地の悪さは感じてしまいます。

 一方通行の人間関係の増加によって、こういう「居心地の悪さ」「すれ違い」を感じる機会が増えますが、それを毎回受け止めているとストレスになります。このストレスをなくすためには、その「居心地の悪さを感じる」閾値を上げるとか、「ないことにする」などの、そういった状態を見ないことにする努力が必要になってくることでしょう。

※関連
ised@glocom - 認知限界

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