ちょうど『カリオストロの城』が放映されるということで、以前、藤津亮太さんのアニメレビュー勉強会で書いた原稿を掲載。一般的には『カリオストロの城』を中年主人公の物語として見る視点はあまりないと思って書いたのだが、この時は、他の人も中年ネタで結構書いていて、ネタとして重なってしまった。一般的には意識されていなくても、このような勉強会に参加しようというぐらいの人たちの中では、ありがちな視点だったということだったようだ。
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なおアニメレビュー勉強会は継続しており、三回目目まで開催されている。
と、その前に原稿で書けきれなかった部分を説明したい。もともと、この原稿は『カリオストロの城』を制作した時の宮崎駿が38歳ということで、制作時の年齢に注目し、押井守との類似性を指摘しようとしたのだが、アニメレビュー勉強会では1200文字という原稿量の規定があるため、その部分はカットした。
『カリオストロの城』のように現在著名なアニメ監督の出世作は、原作に独自色をつけたものが多いが、一から作るオリジナルと違い、原作をどう見るかという視点から、制作者の思い入れを強く感じることがある。制限された環境であればあるほど、個性は際立つのだ。原作つきの映画とは高度な二次創作なのである。
宮崎駿のライバルといえば、押井守だ。押井の出世作なら、もちろん『うる星やつら ビューティフルドリーマー』だが、1951年生まれの押井守が1984年の『ビューティフルドリーマー』を制作した時は、33歳と若い時期であった。『カリオストロの城』は宮崎駿の出世作であるが、制作時には38歳と少々遅咲なのだ(1941年生まれで『カリオストロの城』は1979年制作)。
押井が『カリオストロの城』制作時の宮崎と同年代の時に制作している作品は『パトレイバー』で、同じ38歳の時には『パトレイバー1』(1989年)を制作し、42歳で『パトレイバー2』(1993年)を制作している。
ここで注目したいのは、もちろん中年の恋愛を描いた『パトレイバー2』である。『パトレイバー1』は快活なエンターテイメント作品として描かれ、1の方が好きだというファンも多いが、38歳というのは、20代を中心とした『パトレイバー』のキャラを活き活きと描くには、ぎりぎりの年齢だったことだろう。だからこそ、『パトレイバー2』では、楽しい第二中隊ではなくなった時代を描き、自分と同年代の後藤隊長を主役に置くしかなかったのではないか。
『カリオストロの城』と『パトレイバー2』、この二作品の恋愛描写を見てみよう。ルパンはクラリスに俺についてこいとは言わない。クラリスにせっかく表の世界にきたんだから、自分と同じ裏世界にきてはいけないと諭すが、それは同時にルパンがクラリスと一緒になるために泥棒をやめるつもりはないということである。後藤隊長は、南雲忍に思いを寄せるものの、決定的な行動には出ない。南雲忍が柘植への思いを持っているから、踏み込まないのだろうが、明確に描かれていないものの、順調に出世する南雲を邪魔したくないというのもあるかも知れない。これらは、結局相手の人生を背負うほどの覚悟はないし、責任は持ちたくないということになる。
ルパンも後藤隊長も、相手に対して優しさを演じるが、それは、ただ相手に良い印象を持ってもらいたいが、決定的な関係にはなるために踏み込まない。相手に深く立ち入らないからこそ、優しく振る舞えるのだ。
クラリスはルパンと恋人だったこともあると語る不二子に「(ルパンに)捨てられたの?」と聞くが、これはもちろん不二子へのライバル心からだろう。また、これはルパンは自分から女を捨てるような男かどうかの確認をしていると思われる。女を捨てない男というのは一見誠実に見えるが、相手の人生を背負う覚悟がないから、自分から捨てられないともいえる。もし自分が相手のためによくないと思ったら、そこで別れを切り出すという誠実さもある。
泥棒でいたい。何からも束縛されない、自由な存在でいたい。後藤隊長は、警察という組織の人間ではあるが、警察の中にいる者としては自由な存在である。宮崎、押井、二人とも既婚者であるが、この自由でいたいという欲求が、ルパンと後藤隊長の振る舞いを決定しているのではないか。
宮崎は、一回終わらせたルパンを再度担当することに相当悩んだという。劇中のルパンは充分有能で、とても冴えない中年男ではない。ただ、それは外面的なものであって、ひたすらに功名心に走り、ギラギラしていた時代は去り、一人の囚われの少女を救うという純粋な目的を持って、行動する。
少年少女に夢を与えたいという宮崎の作品には、このように正しく生きて欲しい、という、まぶしい輝きがある。『イノセンス』制作時に押井はアニメを必要とする子供たちには、そういう作品ではなく、諦めの物語が必要なんだと語っている。しかし、そんな押井も『スカイクロラ』では変わった。
『カリオストロの城』が今も強く記憶される作品となったのは、「なんと気持ちのいい連中だろう」というエンディングのセリフに代表される「ちょっといい話」感のあるよく完成されたエンターテイメントという一般的な評価だけではなく、その裏にある、中年にさしかかった宮崎の迷いや諦念を、見た人間は明確ではなくとも、感じるからなのだろう。
WEBアニメスタイル | アニメ様365日 第27回 おじさまとクラリス
小黒祐一郎氏は、『カリオストロの城』を、中学生に見た時と、制作当時の宮崎駿の年齢に近付いた時の見え方の感じ方の違いを説明している。
カリオストロの城(ルパン三世) スタジオジブリ
この原稿を書く際にはこちらのサイトが大変参考になった。宮崎駿の制作当時の発言はこちらを参照しているのだが、『ルパン三世』という作品への思い入れの強さがよくわかる。
・想定媒体
『カリオストロの城』を未視聴ではなく、すでに見ている層に届けたい。30代以上がよく読んでいるようなカルチャー誌。
『カリオストロの城』といえば、日本のアニメを代表すると言われるぐらい、よく絶賛されている作品だ。しかし、原作のハードボイルドなルパンと違い過ぎる、他の宮崎作品と同じく、ヒロインを救い出すエスコートヒーローであって、ルパンというキャラクターを使わなくてもできる話だと批判もある。
しかし、当時の宮崎駿の発言を追い掛けてみると、『カリオストロの城』というのは、『ルパン三世』という作品を終わらせるために作られた作品であり、宮崎は何よりルパンというキャラクターを愛していたからこそ、原作とは違うルパン像を描いたのだ。
「もう十年以上昔。俺は一人で、売り出そうとやっきになっている青二才だった」とルパンは劇中で回想するが、これは宮崎が『ルパン三世』の原作を読んだ時に感じた魅力でもあった。宮崎自身30歳前で、やけくそでハングリーさを感じる原作に、自分を投影していた。だから1stルパンは、年齢を意識しないで作れたという。しかし、このハングリーなキャラクター像は、1960年代から70年代には合っていたが、だんだん時代の空気とはズレていった。時代に取り残されたヒーローを、ヒーローというポジションから解き放つためには、作品を終わらせるるしかないと宮崎は考えたのだ。
劇中でルパンはクラリスに「おじさま」と言われているが、ルパンは「中年」、それも「若さを失った薄汚れた中年男」として描かれている。回想シーンで出てくるルパンは1stルパンの青ジャケットルパンということからも、『カリオストロの城』のルパンが中年であるということが強調されている。一見、その後の宮崎作品と同じようなエスコートヒーローものと思われる『カリオストロの城』だが、ルパンは『ラピュタ』のパズーのような未来ある若者ではない。あくまで「薄汚れた中年男」だ。
そんな中年男が、クラリスという少女を、なぜ命を賭けて救出しようとし、王子のように優しく振る舞うのか? 物語の中で描かれている理由としては、10年前に自分を助けてくれたお礼になるのだろうが、宮崎は「薄汚れた中年男」が再度輝くためには、自分を高めることに駆り立ててくれる女に出会うしかないと考えていた。「聖なる少女」を救うことが「薄汚れた中年男」を輝かせるのだ。
余談だが、クラリスは当初活発なヒロインになる予定だったが、不二子を出して欲しいという興行側の要求により、おとなしいヒロインとなった。宮崎は不服だったようだが、これによって「薄汚れた中年男のルパン」と「聖なる存在のクラリス」という対比がより明確になっているのは面白い。
エンディングで、ルパンはクラリスを抱きしめようとするが何度も躊躇して、結局抱きしめない。それは、決定的な関係には踏み込まないためだ。相手に深く立ち入らないからこそ、ルパンは優しく振る舞えるのだが、それは相手の人生を背負う覚悟、責任とは無縁の行動だ。クラリスは、ルパンを輝かせてくれる存在だったが、ルパンがクラリスを輝かせるためには、クラリスの人生を背負う必要がある。しかし、それだとルパンはクラリスを明るい世界に連れていくために闇の世界である泥棒稼業をやめるしかないが、ルパンは泥棒という自由を選ぶ。恋愛関係によって、自由に制限をかけられたくないのだ。クラリスが困った時には駆けつけることを約束するのは、自由に制限をかけることなく、また薄汚れたルパンが輝けられるから。というのはいささか意地の悪い見方かも知れない。
ルパンはクラリスを自分の存在意義を確認するために利用しているだけと見るか。それとも、クラリスには自分のような薄汚れた男は似合わない、もっと良いパートナーが見付かるはずと幸せを願っているからこそ、ルパンは身を引いたと見るか。それは、見る人間の立場に委ねられている。
『未来少年コナン』や『天空の城ラピュタ』を始めとする宮崎作品の冒険活劇は、少年少女に向けて作られていた。このように生きるのが正しいという空気に満ち溢れた、眩しいぐらいに輝いている作品だ。
しかし、『カリオストロの城』には、宮崎の迷いや戸惑いが詰め込まれており、そのような輝かしさはない。表現は、必ずしも制作者の意図通りに受け取る必要はないが、『カリオストロの城』を単なる冒険活劇ではなく、宮崎が意識していたように「若さを失った薄汚れた中年男」の再生の物語として見れば、他人事ではなく、自分事として新たに作品を発見することができることだろう。
(敬称略)
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自己投影している、つまり自分自身と対面する事が作品なんだなあと、思った。次いで、意識せずとも出る個性は頑固な要素 笑 QT @kanose ブログを更新 制作当時、中年にさしかかかった宮崎駿氏の自己投影として見る『カリオストロの城』 – http://t.co/wiRsvgRv
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切ないなぁ ? エンディングで、ルパンはクラリスを抱きしめようとするが何度も躊躇して、結局抱きしめない。それは、決定的な関係には踏み込まないためだ。相手に深く立ち入らないからこそ、ルパンは優しく振る舞えるのだ http://t.co/hfBRSPjl
また観たくなってきた。 RT @kanose: 制作当時、中年にさしかかかった宮崎駿氏の自己投影として見る『カリオストロの城』 http://t.co/7kzdgz6b
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大昔のエントリかと思いきや、つい最近の投下。なんで今更こんなこと語ってんだろ…。http://t.co/Hsm0YXPF http://t.co/n9AXh1pz
"宮崎は「薄汚れた中年男」が再度輝くためには、自分を高めることに駆り立ててくれる女に出会うしかないと考えていた。「聖なる少女」を救うことが「薄汚れた中年男」を輝かせるのだ。" http://t.co/Hsm0YXPF
佳苗に殺されたとされる男たちは果たして「パズーのような未来ある若者 http://t.co/Hsm0YXPF 」だったか!? 違うwww それこそ中年や老年に差し掛かった連中だwww 彼らにとっては佳苗こそがクラリスに他ならなかったのだwww
今さら何十年も前のアニメ映画について"「聖なる少女」を救うことが「薄汚れた中年男」を輝かせるのだ http://t.co/Hsm0YXPF "なんてこっ恥かしいフレーズを吹聴して悦に入る村長わ古過ぎるのだwww ほんっっと、才能ねーわこいつwww
"クラリスは、ルパンを輝かせてくれる存在だったが、ルパンがクラリスを輝かせるためには、クラリスの人生を背負う必要がある。" http://t.co/Hsm0YXPF ← 非実在美少女の「人生を背負う必要」わないわなあ、げらげらwwww http://t.co/fo1bChQC
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"『未来少年コナン』や『天空の城ラピュタ』を始めとする宮崎作品の冒険活劇は、少年少女に向けて作られていた。しかし、『カリオストロの城』には、宮崎の迷いや戸惑いが詰め込まれており、そのような輝かしさはない。" http://t.co/Hsm0YXPF
この話おもっしおいなあ。昔見た作品が、自分が歳を取ることで全然違って見えるっていうのあるよね。 制作当時、中年にさしかかかった宮崎駿氏の自己投影として見る『カリオストロの城』 | ARTIFACT ―人工事実― http://t.co/IPAnPqcj
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描き手が年を経た時、少年少女をターゲットにした創作はむずかしいですねぇ。